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奉納\弁護士妖怪大泥棒神社・金沢地方検察庁御中
記録作成等の措置を講ずべき弁護士ツイート他

2016年7月17日日曜日

辺田の浜・神目神社の奉納額鯨捕り絵図と、被告訴人弁護士、元裁判官らの記し描いた地獄絵図

*** 辺田の浜・神目神社の奉納額鯨捕り絵図と、被告訴人弁護士、元裁判官らの記し描いた地獄絵図

2016-07-17 日曜日 15:29 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-17 15:21 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/754561601026400256
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_辺田の浜・神目神社.jpg https://t.co/k9Q4gXq0gV

 江戸時代後期の鯨捕り絵図のことは、小学生の子供の頃から知っていましたが、上記の写真にある立て札の案内板を読んだのは撮影した時が初めてで、親子の鯨であったというのも知らなかったように思いました。私の記憶ではこの数日後に、コンセールで小木港のとも旗も見ています。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-17 15:41 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/754566586187390976
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_コンセールのと内の売店・とも旗祭りのポスター.jpg https://t.co/v8QwCbiX7Y

 5月1日というのはちょっと意外でした、とも旗祭りの前日ということになります。今年は2日のお祭りの初日だけ見に行きました。昨年は二日目だけ見に行ったと思います。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-17 16:06 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/754573039308709888
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奉納・悪霊退散・弁護士泥棒神社\廣野秀樹(@hirono_hideki)さん | Twitter.jpg https://t.co/d3MwLlvK7S

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-17 16:06 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/754572882206785536
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廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の夜(@hirono_hideki)さん | Twitter.jpg https://t.co/vwylCiCXy5

 どうも勘違いをしていたようです。Twitterのプロフィールの名前に「奉納」とつけたのは4月3日の12時前後だったようです。私は、神目神社の案内板を見たあとで、さらにとも旗をコンセールのとで見た後と思っていたのですが、とも旗を見たあとで変更したのがカバー写真だったかと思います。

ツイート:hirono_hideki(奉納・社会汚染:弁護士泥棒神社\廣野秀樹):2016/04/03 12:05: https://twitter.com/hirono_hideki/status/716461589575000064 : プロフィールの変更をしました。思いついてすぐです。

 どうも上記のツイートが、プロフィールの名前に[奉納」をつけた直後のもののようですが、どうして思いついたのか思い出せず、神目神社の案内板を見た後のこととばかり思っていました。

 「奉納」というのは、考えてみるとお祭りなどでよく目にしてきた二文字でした。「捧げる」とも読みますが、これは安藤文さんのことで、警察署の警察官に「彼女に捧げるんか?」などと言われたことが印象に残っていました。たぶん平成11年8月7日の金沢中警察署でのことかと思います。

 思えば、物心ついた頃から、辺田の浜の家で母親と二人暮らしをしていました。神社の下は浜辺の海でしたが、昭和から平成に変わる頃に埋め立て地となって、現在の宇出津新港となっています。

 コンセールのとの売店にあるとも旗は、たぶんオープン当時からそのままあるもので、ずっと前から見かけていました。

 小木港のとも旗祭りのことで、最近になって知ったことは、明治時代に子どもが伝馬船に旗を立てて遊んでいたのが始まりだという話でした。4月ころだと思いますが、不思議と最近になって知ったか気が付きました。

 以前は、子どもが親の航海の安全を願い、子どもたちだけでとも旗を作っていたとは聞いていましたが、現在は少子化で、大人が手伝うことが多くなっているとも聞いています。大きな旗には上の方に決まって「奉納」の二文字があります。

 祭りで一番身近なのは、地元宇出津のあばれ祭りです。以前は7月7,8日でしたが、初日はキリコが役場前の大松明の火の粉を乱舞するのが見どころです。

 私は子供の頃、父親がいなかったので、大橋組の親戚の人には責任が持てないと言われ、大松明の時、キリコには乗せてもらえず、悔しく惨めな思いをしたことをおぼえています。

 平成11年の6月、平成3年の8月の初め以来に会った前妻に、自分の二人の子どもが自転車を買ってもらえなかったことに原を立て、友達の自転車を川に投げ込んだという話を聞きました。

 自転車を川に投げ込むという発想もなかったのですが、後で考えると、あばれ祭りの2日目は、神輿を梶川に投げ込むのも見どころの一つです。町の中心部に近いので人も大勢集まります。昔は、神輿を落とす川の場所の横に、被告訴人大網健二の家がありました。

 神輿はそのあと八坂神社の近くのカンノジの川にも落とし、そこには燃え盛る大松明もありますが、車のすれ違いも出来ないような狭い道です。八坂神社では置き松明に神輿を投げ入れ、そのあと宮入りとなりますが、八坂神社の境内も昔とほとんど変わらず広い場所ではありません。

 梶川の横にあった大網兄弟の家も町内は大橋組で、最近になって新町3町内とも呼ばれると知りました。宇出津の中心部で商店街になっているのが新町ですが、江戸時代の頃は海で、その後に埋め立てられ町が出来たと、これも比較的最近になって人から聞いて知りました。

 新町は10年から20年ほど前に道幅の拡張工事が進み、ようやく完成したのが昨年の春とも思いますが、建物を取り壊して道路幅を広げたので、表通りの古い建物はほとんどなくなりました。

 新町でも柳田方面につながる道路は拡張工事の対象外なので、比較的古い建物もそのまま残っており、いくらか建物が変わっても昔の風情を残しています。新町の銭湯や、茂平食堂のあたりです。銭湯は中町、茂平食堂は大橋組の町内になります。

 茂平食堂の前あたりは、あばれ祭りの2日目で、カンノジをまわって、キリコが各町内に帰る通り道にもなります。全てではないですが、茂平食堂の前を通って、新町交差点で各町内のキリコは自分の町内に帰っていきます。

 あばれ祭りのキリコは、八坂神社に戻る神輿のお供ということにもなっていて、八坂神社の近くの下岩屋、上岩屋の細い路地のことをカンノジと呼んでいます。細い道ですが、昔は柳田村方面に向かう主要道だったと、これも最近になって知りました。

 小さい頃は、茂平食堂の前辺りで、誰かの背中におんぶされながら、うとうととしながら太鼓や鉦、笛の音をききながらカンノジから帰るキリコを見ていた記憶があります。

 今年は、二日目の途中になんどか強い雨が降ったこともあり、早めの時間に終わったようですが、例年だと私の近所の町内でも、カンノジから町内に戻るのは、すっかり明るくなった朝の5時頃にもなっていたかと思います。名残惜しく祭りを楽しみたいという人も多いようです。

 昔の私の記憶では夜中の3時ころには終わっていたように思いますが、二日目は初日と違い長丁場になります。

 キリコは今年41台で、大人キリコが36台、子どもキリコが5台でした。以前は50台近く出ていたと思います。キリコは運行の番号が決まっていて、そのうち酒垂神社の近くのマチと呼ばれる地区のキリコは昔から先頭を占めることになっています。

 以前は9町内だったように思いますが、現在はキリコを出さず、ほかの町内と一緒にやる町内もあるらしく、7町内のキリコかもしれません。KYNの酒垂の町内もその一つです。大竹町は酒垂のキリコと一緒にやっているとも今年聞きました。

 KYNについては、これまでとは違い、本書において被告訴人という部分を外しました。そのことについても説明が必要かと思いますし、あばれ祭りとのからみで、他に書いておくこともあります。

 最近強く思うのは、被告訴人弁護士、元裁判官らが行った裁判の結果がもたらした周囲への影響のことです。KYNもその一人で、彼にどのような認識や自覚があるのかははかりかねますが、元を辿れないような影響が、少なくとも私の今日に及んでいます。

 それも被告訴人弁護士、元裁判官らがもたらした地獄絵図の一面、一つの物語といえるものです。

2016-07-17 日曜日 17:38 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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