2016-07-03 22:10:09
テーマ:
検察
1985年の殺人事件(「松橋(まつばせ)事件」)につき、2016年6月30日、熊本地裁は再審開始の決定をした。しかし熊本地検はこれを不服として、決定のわずか2日後に福岡高裁に即時抗告した。
報道をみる限り、この事件も毎度おなじみの「冤罪パターン」で、無理な被疑者取調による虚偽自白、裏付け証拠の不存在、検察の証拠隠しといった要因があるようだ。
それでもなお検察が再審開始に抵抗するのはなぜだろうか。
私は検事時代に再審請求事件を担当したことはない。
が、本質は無罪を争われる事件である。となれば、自分の経験に照らして少々考えてみる価値はありそうだ。
無罪を争われる事件は、捜査段階から終始否認するパターンと、捜査段階では自白していたのが公判に至って否認に転じるパターンとに大別されよう。なお、一審判決まで自白していたのがそれ以降に否認する場合もあるが、私はこのパターンも経験していないのでここでは検討しない。
捜査段階で自白があろうが、自白頼みの立証をしてはならず、必ず自白以外の証拠をくまなく集めて「仮に自白がなくても有罪か」という厳しいチェックをしなければならないのが検察の建前である。
だが、有り体に言って、捜査段階で自白している場合はそうでない場合に比べてチェックの厳しさに緩みが起きるのは否定できないと思う。
捜査段階で否認する被疑者の多くは単に否認するだけにとどまらず、あらゆる弁解をするが、実はこの弁解こそが捜査の目標になる。被疑者の弁解が裏付けられるかどうかを調べて、裏付けられれば不起訴(つまり無罪)、裏付けられなければ起訴(つまり有罪)と考えを進めることができる。横着な言い方をすれば、被疑者の弁解に従って捜査を進めれば自ずと答えが出るはずなのだ。
このように、捜査段階での否認事件では、被疑者自身が捜査の道筋を示してくれる点で捜査はやりやすいし、チェックも徹底しやすい。
だが、なまじ自白があると、捜査の道筋は捜査機関側がしっかりと作らないといけない。
ここで主任検事が経験不足だと大きな問題点を見落としたりする。それが決裁で指摘されればまだ傷は浅いが、主任が平素から決裁官に信頼されていたりすると、「ここはこうなってます」「大丈夫です」との報告を決裁官も素通りさせてしまい、結局穴を埋められないままに起訴してしまいかねない。こうした事件が公判での大騒ぎを招く。
あるいは、自白しているとはいえ、その裏付けが十分に得られない事件もある。自白の何もかもを裏付けられる事件の方がむしろ少ないと言ってもいいだろう。とくに事件が古いと裏付けのしようがないポイントが出てくる。
このような場合は「自白自体が信用できるかどうか」というチェックで結論を出さざるを得ない。これが危険なのである。極端な話、自白を聞いた人間の感覚に頼る羽目になるからだ。
捜査をやっていると、目の前で自白する被疑者を厳しく問い詰めるのは難しくなりがちである。「妙なことを言っているな」と感じても、取調で「きみは本当にやっているのか?」という質問をするには度胸がいる。
こうした度胸がいること自体が問題である。
話がずれるが、司法修習生が被疑者を取り調べると、警察で自白している被疑者が否認に転じることが少なくない。これは、修習生の質問が例えば「本当に殺すつもりだったの?」といったいわば核心を突くものであることが多いからだ。
仮に殺意のあった被疑者でも、こんな質問をされて「そのとおりです」と言える人はまずいないと思う。「いや、そんなつもりはありませんでした」と言うのが人情というものだ。
修習生がこんな質問をして被疑者を否認させると、指導担当検事はおそらく渋い顔をする。そして従順なタイプの修習生だと「否認させちゃいけないんだ」と学習してしまう。
だが、警察の捜査と証拠の徹底したチェックが検察官の職責であることを踏まえれば、本来なら検事も修習生のような質問ができないとおかしいだろう。「度胸がいる」のはまずいのだ。
とは言うものの、私自身、自白する被疑者を否認に導くような質問をしたことは殆どなかった(駆け出しのころはできたこともあったが...)。
検事が自白する被疑者を否認に導けないのは、どこかで「自白しているからには犯人だ」と自分自身が信じている、または「信じたい」心理があるからだろう。
さらには、せっかく警察が苦労して自白させてくれたのに、検事が否認させてしまうと警察にそっぽを向かれてしまうという恐怖感もあると思う。
または、敢えて否認に導くような稚拙な質問ではなく、自白が信用できるかどうかを見極める質問をすることでチェックを果たしたと考えるだろう。が、こうした質問も弁護人と同じレベルのものかどうかは疑ってかかるべきだと思う。
こうして、自白している被疑者をきちんとテストしないままに起訴してしまい、その後に大変な過ちが発覚するわけだ。
閑話休題、再審開始決定に抵抗する検察は、たしかに見苦しい。再審開始決定についての報道からは、どう見ても間違った有罪判決としか思えないからだ。
なのになぜ検察は徹底抗戦するのだろうか。
再審事件はその事件の捜査や第一審公判から長い時を隔てたものが多いが、この時間を度外視して考えてみる。
要するに、例えば先月自分が起訴した事件が第一審で有罪になったのに、高裁で逆転無罪になったとイメージすれば多少の想像がつく。
主任検事の正直な気持ちを言えば「そんなばかな、高裁はどこを見てるんだ」といったところだろう。まして一審も否認事件でじっくりと証拠調べをしたのならなおさらだ。
「一審であれだけ証拠を出して、ちゃんと地裁も有罪と認めたのに、高裁はなんだ」と反感を持つのが普通の検事だと思う。
ところが、一審でとことん立証したと言っても、証拠の全面開示がない現状では、弁護人と裁判所は検事が選んで出した証拠しかチェックしていない。なので実は検事の手元には、少なくとも弁護人や裁判所の視点で見れば無罪になるかもしれない証拠が埋まっている可能性があるわけだ。
ただ、検事はこうした「隠れた・隠した証拠」を踏まえてもなお、「ひとたび有罪判決が出たからには、それを覆す判断は認めない」心理になりがちだと思う。
というのは、弁護人と裁判所にとっては「隠れた証拠」であっても、検事は起訴前にそれを全て点検し、場合によっては複数の決裁官にも点検してもらった上で有罪と信じて起訴しているからだ。
「俺たちは全ての証拠を虚心坦懐に眺めて、絶対に有罪だと信じて起訴した。そしてそのとおりに有罪判決も出た。ならば俺たちの判断は絶対に揺るぎないものだ」という命題が成立しているのだろう。
しかし、実はこの命題にはフィクションがある。
すでに述べたように、そもそも起訴前に主任検事が「全ての証拠」をチェックしているかどうかが怪しい事件がある。力不足が原因かもしれないし、自白している被疑者を否認に導くような「度胸のいる」質問をしないですませてしまえば、それは徹底したチェックを経たとは言えまい。
また、これも前述したとおり、決裁官が証拠を総点検するケースこそが少ない。多くの部下の事件を決裁する側に総点検の時間的余裕はないのだ。大事件は地検を飛び越えて高検、あるいは最高検の決裁を必要とするが、まさか検事長や総長がいちいち証拠を見てゴーサインを出すはずがない。
つまり検察庁が総出でチェックした事件などありはしない。
さらに、「虚心坦懐」に証拠をチェックするのが難しい。
検事の悪しき宿命とも言うべきだろうが、有罪方向の証拠は過度に尊く、無罪方向の証拠は過度に軽んじて見てしまいがちである。「弁護人の目で事件を見ろ」との教育はあっても、それを文字通りに実践できる検事は多くないはずだ。
となると、先に述べた命題の正体は「主任に任せきっての証拠評価を、その後の決裁官たちが何の疑問も持たずに容認した」だけになりかねないわけだ。
こんな起訴に対する有罪判決は、それこそ砂上の楼閣だろう。
長い時を経た再審事件となると、もはや検察庁の中に事件当時の主任や直接の決裁官が残っていないことも多いだろう。
となると、検察庁にあるのは「有罪判決を得た俺たちの判断に何の間違いもない」という「命題」だけということになる。
もちろん、再審事件を担当する主任検事もいれば、その主任から報告を受ける決裁官もいるはずだが、事件の捜査・第一審公判当時と全く同じスタンスで証拠を見ることができるのだろうか。
仮に再審事件に携わる誰かが「しまった、これは起訴がおかしい」と気づいたとして、それを組織として容認することができるのだろうか。
「起訴検事も公判検事も決裁官もみんな退官してるから、誰に気を遣うことなく無罪と言いましょう」となってもよさそうなものだが、そうならない心境も全くわからなくもない。
ただ、もしも「検察は総出で全証拠を厳正にチェックしてるから間違いはない」というフィクションの上にあぐらをかいて抵抗しているとしたら、それだけは一日も早く改めるべきだと思う。
引用:検察はなぜ再審に抵抗するのか|検事失格 弁護士 市川寛のブログ
2016年7月15日金曜日
引用:検察はなぜ再審に抵抗するのか|検事失格 弁護士 市川寛のブログ
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