2016-07-08 金曜日 13:55 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>
さきほど判決書の写真をブログの記事として投稿しました。次の記事になります。
奉納\弁護士妖怪大泥棒神社・金沢地方検察庁御中: 平成5年9月7日付_名古屋高裁金沢支部小島裕史裁判長の判決書 http://hirono2016k.blogspot.jp/2016/07/597.html
半月ほど前にも一度全体に目を通しましたが、改めてひどい内容だと思いました。これと深澤諭史弁護士のような法律家のがちな思い込みと決め付けが重なれば、いくらでも似たような事態は起きそうです。
平成5年9月7日付_名古屋高裁金沢支部小島裕史裁判長の判決書_02.jpg https://t.co/JfUGYmUR5B の中間辺りの記載になりますが、「嫌と3回ぐらい言った」という部分があります。
当時の状況として、私は車の外から彼女のパンツを脱がせ、性行為に及ぼうとしていましたが、長い時間ぼっきさせることが出来ず、体がいうことをきかないのでもはや諦めようと思ったところ、彼女が悲しそうに「いや」と早口に3回ほど繰り返したのです。
谷内孝志警部補の供述調書にそこまで具体的に記載があったか確認しておらず、ずいぶんと後になって(20年ほど経過)、江村正之検察官が証拠請求として提出しなかった供述調書も相当数あるらしいと気が付きました。
というのも起訴されるまでの21,23日間は連日取り調べがあり、その都度毎日のように供述調書が作成されていたという記憶があるからです。
強姦ということになっていますが、私は彼女の真意を聞き出すための手段として、性行為に及ぶことを思いついたのです。
金沢港の大野埠頭で車から這い出て逃げようとしている彼女の姿を見た時、私は恐怖心にかられ、反射的に車から飛び出し、彼女の頭の付近を蹴ってしまったのですが、力が抜けていたこともあったのか、路面に頭を打ち付けてしまったようです。
反射的な行動でしたが、ほんとうに一瞬のことで一瞬目をつむったのか、視線をそらせたのか、とにかく蹴りがどのように入ったのか見ていません。
やってしまったと思ったあと、彼女は体を空の方に向けて苦しそうにのけぞっていました。相当打ちどころが悪そうだとすぐに判断し、彼女の体をかかえて車に乗せ、金沢西警察署に向かいました。
金沢西警察署は金石街道という大通り沿いにあります。片側2車線か3車線だったのかは記憶にないですが、金沢市内でも広い道路でした。
車で走ってきた方向から金沢西警察署の道路をはさんだ向かい側に車をとめました。その前、金石街道に出る交差点の50メートルほど手前か、減速をしたときに彼女を見ると、顔が真っ赤に流血していました。
私はすぐに金沢西警察署に出頭して救急車を頼むつもりでした。その前に一言声を掛けておこうと、私は彼女に次のように申し向けました。
「おれ、おまえのために人生棒にふったようなもんやな。今から警察行って救急車を頼むし。刑務所行くかもしれんな。最後に一言だけきくけど、お前、ほんとうに会社の裏に車とめとったおぼえないがか?」
すると彼女は、眠りからさめたばかりの気だるそうな感じで、「いったい、なんの話や? それ。わたし、そんなん知らんよ。」と言ったのです。
とにかく彼女は、「いたい」とか「やめて」という言葉を一度も言いませんでした。蹴りを受ける前も次のように言っていました。
「わたし、広野さんのことすきや。すきやけど、会社の人らと一緒や。みんなと一緒や。」このあと、「わかって、広野さん」という声を聞いたような気もするのですが、何年も前からはっきり聞いたのか、記憶に自信が持てなくなっています。
私は、殴って事実を聞き出そうとしたことが無意味だったと後悔し、気持ちを落ち着かせようと、金沢港の海など周りの夜の風景に目をやり、しばらくして視線を彼女の方に向けると、そこで車から這い出そうとする姿が目に入ったのです。
自信を持って理解するまで長い時間が掛かりましたが、自分が追い込まれた苦しみも、安藤文さんの不可解な言動もすべて、市場急配センターの関係者らが仕組んだ罠だと判断しました。
自分の見立てに間違いがなかったと確認したのは、上告審になって、国選弁護人となった斐川雅之弁護士から市場急配センターの関係者の供述調書が縮小版で郵送され、拘置所の独房の中でそれを読んでからです。平成5年12月の初めだったと記憶しています。
この小島裕史裁判長の控訴審の判決書も、書面として目にしたのはだいぶんあとのことであったと思います。
法廷で小島裕史裁判長が判決を読み上げている時、大きく明瞭な声でもなかったので、部分的にしか聞き取れなかったように思いますが、自分でも信じられないような怒りが、全身からこみ上げてきたことを憶えています。
拘置所に戻ると、すぐに母親の面会があり、舎房へは戻らずにそのまま面会室に入りました。母親が「おねえちゃんのこと」などと言ったように思いますが、誰に演技指導を受けたのか、ちょっとふざけてなだめるような感じでした。
誰かの指図を受けていることは前々から感じていたことでした。ただ、それが木梨松嗣弁護士なのか、検察庁なのか、裁判所なのかも情報源が一切なかったので、考えようもありませんでした。
とにかく、「人権擁護委員を呼ぼって来い!」と大声を出し、面会室のアクリル板を拳で叩きつけたのです。すぐに数人の刑務官が飛び込んできて連れだされました。
昼の12時頃だったように思いますが、革手錠をつけて保護房に入れられ、革手錠は翌々日の13時頃まで49時間つけっぱなしにされました。一瞬でも痛くてたまらない状態が49時間ぶっ通しでした。革手錠はみしみし言うほど締め付けられたものです。
革手錠を外されてから翌日の13時頃まで保護房に入れられていました。出たあとは入浴をさせてもらい、陽のあたる舎房に入れられましたが、苦しい時間が続いただけに解放感も大きかったと憶えています。
保護房から戻って入れられた部屋は、突起物のない部屋で、自殺防止の特別室だと聞きました。そこに10日か2週間ほどいたと思います。そのあと、普通の舎房に戻され、たしか25日間の懲罰を受けました。
懲罰と言っても舎房内で、廊下に向かい正座と安座を繰り返すだけのものでしたが、本を読むことも手紙を書くことも許されず、まるまる無為に時間を潰すような生活でした。
福井刑務所を出所して、数日後だったと思いますが、平成9年1月25日頃とも思います。被告訴人安田繁克の鵜川の実家に電話などしていたところ、まもなく被告訴人安田敏本人から電話が掛かってきました。夜の遅い時間で22時ぐらいだったとも思います。
被告訴人安田敏は、金沢の北都高速の寮にいるといい、携帯電話から電話をしていると言っていました。個人が持つような携帯電話は福井刑務所を出所後に初めて知った存在でしたが、すごく電話料金が高いと聞いていました。
参考までに同じ平成9年の7月の終わりぐらいから始めていた金沢市高尾の土木工事の仕事場では、20代の若い社員が、月の電話代の請求が15万円来たと話していたこともありました。
被告訴人安田敏は、電話代など気にする様子もなく、私から情報を聞き出す感じでいろいろと話していましたが、初めのほうで、「お前、刑務所の中で頭おかしくなった、って聞いたぞ」などと言っていました。
平成5年9月7日付_名古屋高裁金沢支部小島裕史裁判長の判決書_02.jpg https://t.co/JfUGYmUR5B 、には弁護人の主張として、被害妄想という言葉もはっきりと明記してあります。
気になるのは、平成5年9月7日付_名古屋高裁金沢支部小島裕史裁判長の判決書_01.jpg https://t.co/9CJvHSCPIj 、の判決書の冒頭にある控訴趣意補充書の存在です。
木梨松嗣弁護士の控訴趣意書は、拘置所にいた私にも写しが差し入れられていた気がしますが、控訴趣意補充書というのは、見た憶えがありません。
それまでの審理の過程や目にした書面において、弁護人から被害妄想と名指しされていたとすれば、私の動揺も大きかったはずです。とにかく精神的に不安な状態で、ずっと生活をしていました。それで精神医学に関する本も読んでいました。
判決書にはわかりやすく、会社の関係者の圧力などは私の責任転嫁だと評価しています。素人に控訴審の判決書など読む機会も少ないですが、そう短いものではないとも思われますし、丹念に被告人の主張を否定しています。
端から被告人の言い分など全く歯牙にもかけない、というそれこそ人格反応が如実にみてとれます。
2016-07-08 金曜日 15:34 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<
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