2016-07-07 木曜日 12:59 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>
「取り消し扱いとする平成28年7月1日付告訴状」にも記憶にある範囲のことを一通り書いたと思いますが、被告訴人大網健二は平成1年頃に金沢市駅西本町の本陣不動産株式会社に入社しました。
なお、現在は市場急配センターの事務所建物がある(?移転しているかも)場所の住所も金沢市駅西本町になっていると思いますが、平成4年当時は金沢市二口町でした。10年ほど前には既に駅西本町になっていたかもしれません。
被告訴人大網健二は本陣不動産株式会社で営業課長になったと言い、名刺も見せていましたが、何時頃にそうなったのか時期は思い出せなくなっています。
平成3年12月頃の時点で、記録的なセールスを達成し、北信越のブロックで表彰を受けたという話をしていたかもしれません。バブル景気の絶頂期に、大活躍をした事実というのは間違いなさそうです。
そういえばその頃、金沢市香林坊の109ビルのレストランで、金沢市内の右翼団体の要人が襲撃を受けたというような事件があって、報道されていましたが、その襲撃を受けた人物とも不動産の仕事上での知り合いだと話していました。
不動産業界はバブル景気の崩壊による反動も大きかったと聞いたことがありますが、本陣不動産株式会社のことは知らなかったものの、平成9年から11年の時点では業績が落ち込んでいるとか、そういう話も聞くことはありませんでした。
しかし、平成14年から平成18年頃の間には業績不振で倒産したはずです。本陣不動産株式会社の倒産のニュースは、たまたまテレビの石川県内ニュースでも見ていた記憶があります。
時刻は15時37分になったところです。一度、宇出津の図書館に行き、そこから歩いて茂兵衛食堂に行ってラーメンを食べ、確認しなおしたいことがあったので、再び図書館に入ったところ、予定外の長居をしました。
図書館を出ると八坂神社の方に足が向き、バイクで漆原から源平まで行き、国重の陸橋に出て十八束から宇出津の家に戻りました。図書館では「能都町物語」というような本を初めて読んでいました。能登町ではなく能都町でした。
茂兵衛食堂に能登の古い写真集があって、そこで平成18年の宇出津の新町の写真を見たのですが、今とはまるで違っていて、大橋組の方から撮した写真は、昭和の時代と同じまま狭く、道路の脇に電信柱が並んでいました。10年でずいぶんと変わったものだと思いました。
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-07 16:13 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/750950757105446912
2016-07-07_13.52.13_茂平食堂でみた写真集の平成18年の梶川橋付近.jpg https://t.co/6HB5PsjEkD
茂平食堂の漢字を間違えていたので投稿しなおしました。茂平食堂も宇出津の大橋組の町内で、私の父親は私が生まれて1歳になる頃まで、その隣でタイヤ屋をしていたと聞いています。物心ついた頃には親戚の家でおもちゃ屋をしていました。
今回の宇出津のあばれ祭りで大橋組のキリコのナカフクの文字が「凌雲志」だということを初めて知りましたが、私が生まれる前から変わっていないようです。被告訴人大網健二も被告訴人大網周一も昭和57年ころまでは町内が大橋組でした。
祭礼委員になったことで初めて知ったことが色々ありましたが、新村三町内が、新村本町、新村浜町に昭和町ということも初めて知り、同じく上町、中町、大橋組で新町三町内と呼ぶことも初めて知りました。
被告訴人大網健二は木梨松嗣弁護士という弁護士を担ぎだしてとんでもないことをやってくれたものだと思いました。同じ年の同じ日に同じ宇出津で生まれているということも、なにかの縁なのかもしれないとは考えてきました。
あばれ祭りのナカフクといえば、「万里風」というのが、とてもかっこいいと思いました。万の字は読めなかったのですが、祭礼委員会の事務所においてあった古い本で知ることが出来ました。上田町のキリコということで、辺田の浜に住んでいた頃は宇出津の入り口の町内でした。
上田町の下には立町と横町があって、宇出津小学校の辺りが横町だと聞いています。立町のナカフクが「聳萬獄」、横町が「暁雲破」とのこと。小学校の近くは辺田の浜に住んでいる頃から共通した行動範囲だったので、今まで何も知らずにいたのが、いくらか不思議な気持ちにもなりました。
私の家の近くには保育所があるのですが、あばれ祭りが終わったあとも、毎日のように午前中のかなりの時間、祭りの太鼓や鉦の音が聞こえてきます。自分らの時は学校でも祭りのことを習うことはなく、もらう小遣いの制限があったことだけよく憶えています。
その保育所のことを書こうと予定しながら外に出かけていました。宇出津には新町に保育所と宇出津小学校の裏の方に幼稚園があったことを憶えています。
保育所は幼稚園のとなりで、すごく浅いプールがありました。隣は映画館で、斜め向かいが持木病院でした。昼に茂平食堂まで歩いて行った時、スマホで写真を撮影しました。
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-07 17:00 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/750962800046985216
_宇出津の大橋組・昔の保育所があった場所2016-07-07_13.40.15.jpg https://t.co/RAll6Qa9h5
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-07 17:00 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/750962776663699456
_宇出津の大橋組・昔の保育所があった場所2016-07-07_13.40.03.jpg https://t.co/tjb9TINGbB
ファイル一括名変更のソフトを使っているのですが、間違えて末尾ではなく銭湯に追加の文字をもってきてしまいました。
ファイル名を変更してアップロードしなおしました。
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-07 17:10 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/750965256118112256
2016-07-07_13.40.15_宇出津の大橋組・昔の保育所があった場所.jpg https://t.co/28cDGRbpir
投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2016-07-07 17:10 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/750965237537382401
2016-07-07_13.40.03_宇出津の大橋組・昔の保育所があった場所.jpg https://t.co/kPBtsMifKJ
先生の監視の中で大勢でプールで遊んだことと、そのあと小学生の低学年の頃にもプールの横の広場で遊んだことは記憶にあるのですが、建物のなかのことは記憶にありません。先生のような大人と幼稚園より小さい頃だったと思います。
幼稚園の方はそれよりはっきりした記憶が残っていますが、記憶にあるのはなぜか昼寝の時間のことだけです。幼稚園では記念写真があって、被告訴人大網健二もすぐ近くに写っています。
幼稚園は宇出津小学校の旧校舎の奥というか裏の方にあったと記憶していますが、5年生になるまで使っていたはずの体育館がどこにあったのか、どんな体育館だったのかも思い出せなくなっています。中庭のような場所に体育館があったことは間違いないと考えています。
昭和51年に現在の宇出津小学校の新校舎が出来て、私らは6年生になった時に新校舎に入り、初めての卒業生にもなりました。小学校の時、被告訴人大網健二と一緒のクラスになったという記憶もありません。学年は127人ぐらいで、4クラスだったと記憶しています。
小学校で一緒に遊んだ記憶もないですが、プロパンガス屋の被告訴人大網健二の家の事務所のようなところには、1,2度遊びに行った記憶があり、彼も一度、辺田の浜の私の家に遊びに来たことがありました。「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」に書いているはずです。
能都中学校の時は1年生の時に被告訴人大網健二と同じクラスになりました。学年は204人で5クラスでした。3年生の時も一緒のクラスになったかもしれないですが、はっきりとは思い出せません。3年生まで2回は同じクラスになったような気がします。
本題に入ります。まずはツイログから「メロン」をキーワードに検索で見つけたのが次のツイートです。
ツイート:hirono_hideki(奉納・社会汚染:弁護士泥棒神社\廣野秀樹):2012/09/04 22:00: https://twitter.com/hirono_hideki/status/242970291599470592 :
平成11年に「森本幼稚園」より「メロン幼稚園」に移転し名称変更。 http://t.co/Ypvjprp1
リンクの記事はリンク切れになっていたようですが、メロン幼稚園のホームページのなかでのリンク切れでした。金沢市木越だとばかり思っていたのですが、ページは金沢市福久という地名になっていました。
いずれにせよ森本とは、ずいぶんと距離が離れています。もう何年も鉄道には乗っていないですが、金沢駅から能登方面は、東金沢、森本、そして津幡という駅の順番で、津幡になると河北郡となっています。森本は金沢市の一番端とも言えますが、駅があるだけ大きな町でもありました。
森本は国道沿いで国道157号線だったと思いますが、その国道を通ることはあっても町中に入ることはほとんどありませんでした。
それだけに印象にも強く残っているのだと思いますが、本陣不動産株式会社の仕事をしていた被告訴人大網健二が、車に同乗させたまま行ったのが、森本の町中にある古くて大きな建物の幼稚園でした。平屋の建物だったように記憶にありますが、漫画に出てくるような建物でした。
アニメのタイガーマスクに出てくる孤児院を思い起こさせるような雰囲気のある建物でした。いつ頃行ったのか、これも思い出せなくなっていますが、平成9年7月から平成11年2月までの間です。この時は、なにも説明もなく、ただ付きあわせただけという感じだったように思います。
それからどれぐらい日にちが経っていたか思い出せないですが、半年以上ということはなく、一月以内ということもなかったように思います。次に被告訴人大網健二に連れて行かれたのが、木越の団地の近くのメロン幼稚園の敷地でした。
建物の完成直後だったのか更地の状態で、契約が成立してこれから工事に着工するという段階であったのかも、今は思い出せなくなっています。とにかくその時に、被告訴人大網健二は木梨松嗣弁護士と一緒にやった仕事とか、あるいは紹介の仕事だと力強く語っていました。
木梨松嗣弁護士のことはビジネスパートナーとも被告訴人大網健二は語っていました。古い資料には記憶が新しい段階で正確な時期、内容が書いてあると思います。
2016-07-07 木曜日 17:56 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<
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