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奉納\弁護士妖怪大泥棒神社・金沢地方検察庁御中
記録作成等の措置を講ずべき弁護士ツイート他

2016年8月9日火曜日

告訴状の下書き)弱者救済を考えるなら法テラスの運営を問題にすべきというモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の法律家としての責任と、祭礼運営における責任の比較検討

**** 弱者救済を考えるなら法テラスの運営を問題にすべきというモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の法律家としての責任と、祭礼運営における責任の比較検討

2016-08-07 日曜日 16:06 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 昨日の8月6日は、生まれて初めて七尾市の石崎奉燈祭を見に行ってきました。このお祭りは単なる祭り見物以外に自分の目で見て確認をしておきたい思い入れがあり、それは羽咋市に住んでいた平成16年から18年頃の夏に遡ります。

 それは真夏の日曜日の20時45分からの中部地方のニュース番組であったように記憶しているのですが、石崎奉燈祭で見物していた若い女性の死亡事故があったというニュースでした。昨日か一昨日に書きましたが、実際に四郷事故が起きたのは平成13年の8月とのことでした。

 年が特定できないのですが、同じ頃には同じ羽咋市のアパートから多分同じ日曜日の同じような時間に、被告訴人梅野博之の自宅に電話を掛けたことと、それとは別に被告訴人大網健二から電話が掛かってきたことがありました。携帯電話だったと思います。

 詳しいことは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」に書いてあると思いますし、いちいち書いていたら長くなるので、ここでの要点以外は割愛しますが、態度を急変させた被告訴人大網健二は、苦し紛れのように私に羽咋市のどこに住んでいるのか、と繰り返しきいてきました。

 そういうこともありますが、私は羽咋市に住んでいた5年ちょっとの間、地元宇出津のあばれ祭りには一度も帰ることがありませんでした。身の危険を案じていたからで、一つの具体的な体験が、平成14年7月のあばれ祭りで、茂平食堂の前でありました。

 これは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」にもまだ書いていないはずです。被告訴人KYNとの関係による体験ですが、その被告訴人KYNについては、被告訴人大網健二とは違い、今回正式に被告訴人には含めないことにしましたので、今回も匿名扱いにします。

 被告訴人KYNはただの関係者ではなく、受けた影響も大きいので、被告訴人としての可能性は残存しており、他との区別をするためにも被告訴人KYNというかたちで、被告訴人という言葉はつけておきます。

 私が最後に地元宇出津のあばれ祭りに参加したものその平成14年のときで、当時はまだ現在のような7月の第一金土とはなっておらず、7月7日、8日と毎年日にちが決まっていました。

 その前も私は平成4年4月1日に金沢西警察署に出頭してから平成9年1月18日に福井刑務所を満期出所するまで、これは4年10ヶ月ほどになるかと思いますが身柄の拘束が続いていたので、祭りはおろか自由の身で外に出ることもありませんでした。

 その前になると、金沢市場輸送のとき一度だけ、妻子を連れてあばれ祭りの見物に宇出津の実家に戻ったことがありましたが、見たのは8日の2日目の夜だけで、それも下岩屋という町内から地元で言うカンノジのあばれ神輿の運行を見ただけと記憶にあります。

 次男は昭和63年1月の生まれで、まだ満足に外を歩くこともできず母親にあずけたまま家においてきたような記憶があるので、その昭和63年の7月8日の可能性が高いと考えています。

 それより前となると昭和58年のあばれ祭りで、それまでは小中学生の頃から他の友達と一緒に祭りをしていたと思いますが、昭和59年からは仕事を休んで祭りに帰るようなことはなく、一度だけ帰ったのが昭和63年と思われる2日目の夜でした。

 能登の各地においても宇出津においても夏から秋のキリコ祭りはお盆や正月以上に重要なもので無理をしてでも帰省すると言われていますが、私はそういう祭りだけではなく、人間関係や地域社会そのものからも孤立し続けて来ました。

 平成4年の事件のことを忘れれば、それなりの別の人生があったようにも思えなくはないですが、どこかでホームレスのような状態になったり、作業現場の事故に見せかけられたり、あるいは祭りや飲み屋での傷害致死事件に見せかけられて、この世を去っていたリスクもそれなりにあると考えています。

 「祭りや飲み屋での傷害致死事件に見せかけられて」という部分は、実際に被告訴人KYNとの関係において、それと思わせるような事実が具体的にありましたし、この点は事態的で詳細な事実を、書面において御庁つまり金沢地方検察庁に提出してきました。

 被告訴人KYNに声を掛けたのは、前の前の前のあばれ祭りだったので、2014年の7月になるかと思います。これは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」において、かなり細かく記述をしており、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のこととも絡んでいたはずです。

 声を掛けたのは、大橋組の茂平食堂のとなりの家の前で、その家というのは昔、私の父親がタイヤ屋の商売をやっていた場所で、私は1歳のときにそこから新築で建てた、住居兼タイヤ屋の辺田の浜の家に移ったと聞いています。1歳の頃の記憶は全くありません。

 たまたま被告訴人KYNの町内のキリコを見つけたのが、その場所でした。彼の町内は酒垂なので、酒垂神社周辺の9町内(現在は大竹町が酒垂と一緒で8町内)は、キリコの運行の先頭になると決まっているので、他の町内と違い探しやすくはありました。

 宇出津は40近い町内になっていて、どの町内も酒垂神社か白山神社の氏子になります。人で不足などの理由でキリコを出さない町内もありますが、今年は36町内で5つの子どもキリコをあわせて41のキリコが出ました。このあたりは祭礼委員をやったのでよくわかっています。

 あばれ祭りの二日目は、運行ルートも長く、祭りの範囲も広くなります。さきほど書いたように先頭の8,9と絞り込みやすかったのですが、それでも目当ての町内のキリコの現在位置を探しだすのは容易ではなく、見つけた先が茂平食堂の前だったというのも偶然とは違うような気がしていました。

 あばれ祭りの二日目は、八坂神社に向かうあばれ神輿のお供をするのが神事としてのキリコの役割で、カンノジの先の八坂神社を過ぎれば、各町内に解散するという感じです。だいたいの位置は見当がつきましたが、探しまわったわけでもなく、そろそろかと行った先で、酒垂のキリコを見つけました。

 被告訴人大網周一も酒垂神社周辺の9町内(地元ではマチと呼ぶ)の一つの本町のキリコを担いていると前に聞いていましたが、それらしい姿は見えませんでした。あばれ祭りで彼の姿を見たのも平成14年が最後でした。

 天徳寺の前辺りに家を借りていて金沢との二重生活で宇出津周辺での鳶の仕事もやっていると聞いていましたが、家が天徳町ではなく本町になるのか、本町のキリコを担いでいると聞いていました。

 平成14年のあばれ祭りでは、昔ののりで貶し合いをしていた干場茂幸に、「あんちゃん、頭なっとないか?」と繰り返し言われました。頭は大丈夫か?という意味です。二人とも酒を飲んでいて笑いながら話していましたが、普段は警戒したように、私の平成4年の事件に触れることはありませんでした。

 バッサと読んでいた干場茂幸と会ったのもあれが最後だったと思います。宇出津の城野町に実家がありましたが、もう何年もうわさ話も聞いたことがありません。被告訴人大網周一の鳶職の会社で、番頭ともナンバー2ともいう立場になっていました。

 バッサも小木や姫の遠洋漁船に乗っていた関係で、被告訴人浜口卓也とはずいぶん親しくしていました。慎重に距離感をおいていると、平成10年当時にたまに会うと感じていました。被告訴人KYNの配管工事の現場で一緒になることや、被告訴人KYNの事務所に来ることもありました。

 被告訴人KYNの事務所に来たというのは、私が今思い出せる範囲で1回だけで、「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」か7月の告訴状には書いたと思いますが、被告訴人大網健二が総合建設業の講習のようなものを、大学の先生を招いてやったという遅い時間の夕方のことです。

 そのとき、バッサこと干場茂幸は、被告訴人大網健二の世話で一戸建ての新築の家を買ったか建てたというような話もしていました。

 「浜口邸新築工事」のWordのファイルを、バックアップを頼むとかいう名目で、私の目に触れさせた被告訴人大網健二の行動も古い「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」は書いたかと思います。

 羽咋市から宇出津に戻ってきたのが何度も書いているように2009年3月15日の夜で、それから毎年、宇出津のあばれ祭りは見物をしていましたが、時間も場所も限定的な見物で、被告訴人大網周一や被告訴人KYNに会うことは避けるようにしていました。

 宇出津のあばれ祭りは同じ広場に一度に集まるようなことはないです。以前は50近いキリコが出ていたと記憶していますが、今でも40ほどのキリコが、道路沿いに並んで集まってから、順番に移動しながら進んでいくお祭りです。

 初日は、21時に始まって能登町役場前の大松明をまわりますが、正確なことはわかりませんが、人の話など聞いていると、順番の初めの方のキリコが町内に帰る頃は、まだ、終わりの方のキリコは出発もしていないかもしれないという感じです。

 私は少年時代と平成14年しかあばれ祭りのキリコに参加したことがないのですが、祭りに参加してキリコを担いでいるとキリコの動きに縛られて、行動範囲も狭くなるはずです。実際、祭礼委員で一緒になった年配の人も、あばれ神輿の運行などほとんど見たことがなかったと話していました。

 地元なのでほとんどの裏道や細い小路も子供の頃から知り尽くしています。キリコの運行は決まった道です。そういうこともあり、出来るだけ避けて、祭りの見物をすることも出来ましたが、どこで誰と顔を合わせても不思議ではないというのもありました。

 羽咋市のアパートに住んでいた頃は、あばれ祭りに帰ること自体をしないと徹底していましたが、今考えても不自由な生活を余儀なくされ、他の家は孫や大勢の親戚の帰省で賑わうのに、私の母親の精神的な負担も相当なもので、それが統合失調症にもつながったのだと思います。

 時刻は8月8日8時29分になっています。昨夜は20時45分頃に家を出て、珠洲市の宝立七夕キリコ祭りを見に行ってきました。家に戻ったのは23時45分でした。このお祭りを見たのは2回目で、前回は一昨年の2014年です。

 石崎奉燈祭と似ているのはキリコが大きいことですが、豪華絢爛な石崎に対して、素朴な手作り感のあるキリコです。石崎のお祭りの会場や運行の道がとても狭かったのに対して、宝立はルートが短いもののとても広いと改めて感じました。

 石崎奉燈祭のメインである堂前広場に対して、宝立は海の砂浜がメインになります。花火も沢山あたり、キリコがいる背後の海に、海面すれすれに花火を打ち上げるのも他のお祭りにはない見どころです。時期的にもいかにも納涼祭と行った感じのお祭りです。

 この宝立七夕キリコ祭りに出かける前に、とても気になる内容のツイートをモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)がやっていました。発言ではなく記事のリンクとタイトルのみのツイートだと思います。

 深澤諭史弁護士も昨日あたりから絶好調で、まさに「弁護士深澤まつり」と言った感じのツイートとリツイートを、花火のように打ち上げています。

 時刻は9時44分になっています。冷凍した食パンを焼いて食べていました。洗濯も始めています。半日でも記述を中断すると何を書いたのか正確に思い出せなくなると改めて思いました。

 つぎつぎに新しい関心の対象が出てくると、そちらに気が周り、どうしたものかと考えているうちにも時間が過ぎて、それまでのことがはっきり思い出せなくなります。もとより全てを書き尽くすことは無理なので、全体としてのまとまりを考えながらやってはいます。

 この項目ではモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の法テラスに対するツイートと、祭礼における責任のことを主題にしています。

 私は昨年つまり2015年のちょうど今頃だったと思いますが、あばれ祭りが終わってしばらく経って頃に、町内の人に頼まれて16人の祭礼委員の一人になりました。任期は2年になります。

 宇出津に祭礼委員というものがあることは知っていました。祭りの頃になると新町に選挙事務所のようなものが出来て、祭礼委員の詰め所になっていることは何度か目にしていたからです。

 交通整理を主にやる集まりかと思っていたのですが、寄付金集めから大松明の点火や片付けまでやるとは思いもよりませんでした。他にもいろいろとありますが、実に多くのことを勉強させていただく機会にもなりました。

 祭礼委員は宇出津の3町内または2町内に一人ずつ選ばれ、酒垂氏子8人、白山氏子8人の16人で構成されます。私は町内が小棚木で音羽町と小棚木の代表になりますが、つい最近になって元は同じ町内だったと知りました。

 現在も同じかどうかわかりませんが、2番めに古い宇出津祭礼委員の出版物によると、音羽町と小棚木は昔、同じ町内だったのでキリコのナカフクも同じ「蘇家宮」になっていると書いてありました。小棚木のキリコは今も同じだと思いますが、音羽町は確認していません。

 母親の実家になっていた小棚木の家に辺田の浜から引っ越してきたのは昭和50年の4月のことかと思います。「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」にも何度か書いてきたと思いますが、十数年ぶりとか聞いた酒樽祭りの復活があると聞いた時に引っ越しました。

 毎年決まったように忘れてしまうので、酒樽祭りはいまだに一度も見たことがありません。祭りというより神事なのだと思いますが、伝統文化として重視されているのか、テレビの県内ニュースでも取り上げられるので、そのときに今年も忘れていたと気が付きます。

酒樽がえし|4月|能登半島-能登町観光ガイド http://www.notocho.jp/event/625/

 確認のため調べてみると祭りとはなっておらず、「酒樽がえし」となっていました。田んぼの中で酒樽を奪い合い、そのあと海に入って奪い合うということです。

 辺田の浜から神野の方に向かった奥に、今も何か建物が残っていますが、ゴミ焼き場がありました。そのちょっと先のところで、子供の頃、母親と一度だけ稲刈りの手伝いをしたことがあり、母親がとても苦しそうにしていたのが強く印象に残っています。完全に音を上げていました。

 ページをよく見ると開催日が4月2日になっていました。何故か日にちのことは考えたことがなく、なんとなく宇出津の春祭りと同じように曜日での開催とばかり思い込んでいたようです。

 考えてみると、観光客の集客を見込むようなお祭りではないので日にちが決まっているのが当然かと思いましたが、不思議と今までそこに思いが至りませんでした。また、やはり私は前日の4月1日に、宇出津の小棚木に引っ越しをしたことになりそうです。

 十数年ぶりに何かお祭りが復活するという話は聞いていたので気になっていたのですが、宇出津の小棚木の家に引っ越しをすることを優先して辺田の浜の家を出ました。

 宇出津の小棚木に引っ越してきた頃は、近所に同級生もいたので近所の子供とも遊んでいました。

 当時のことで忘れられないのは、NHKの大河ドラマで平将門を主人公にした「風と雲と虹と」というドラマがあり、自分でも不思議なくらいそのドラマにのめりこみ、それまでまともにテレビドラマなど見たことがなかったのに、心に決めて全話を視聴したことです。

 当時町内の子供らで火の用心の見回りがあり、見回りの参加を促すように家の前で「火の用心」の掛け声を繰り返されたのですが、平将門の大河ドラマを見たいために居留守をしたことがありました。時間が長く感じる読経のようなもので、退散してくれた時はとても安堵したことを憶えています。

 同じ頃には能都町役場の2階にあった図書館で「平安王朝」という本を借りて、平将門のことを読んだことも記憶に残っています。出来て数年後の役場庁舎だったと思いますが、不思議に前の庁舎や建設中の様子を見たという記憶は一つも残っていません。

 祭礼委員の話に戻しますが、安全対策ということで珠洲警察署の署員と会議をすることも何度かありました。それまでになく安全対策が問題になったのは、今年の春の曳山祭りで、白山氏子の曳山が強風にあおられ転倒し、一人だけでしたが重傷者が出たからです。

 祭りの運行中ではなかったので怪我人も少なくすみましたが、小さい子供が沢山、曳山に乗るというお祭りなので、運行中に転倒などしていれば、大きな重大事故になっていた可能性もありました。

 気象条件による祭礼の中止の見極めなどが中心の課題になりましたが、その会議の場で、石崎奉燈祭の死亡事故の話を聞きました。死亡事故当時の七尾署の責任者が、そのあと能登警察署に赴任してきたということで、祭礼委員会との間で綿密なやりとりがあったとも聞きました。

 伝聞なので正確なことは知りませんが、石崎奉燈祭においては死亡した見物客の若い女性に対する損害賠償として数千万円を、石崎町の人たちがお金を出し合って支払ったと聞きました。

 あばれ祭りの数日前には各町内の代表者らの集まりがコンセールのとであったのですが、その時は参加者の町内の人からの意見として、石崎奉燈祭の事故では責任者が在宅起訴され刑事裁判で執行猶予付きの有罪判決を受けたと聞きました。

 あとで他の人に話を聞くと、それは2,3年前の事故で死亡事故ではなかったとも聞きましたが、その話は初めてしりました。

 宇出津のあばれ祭りでは各町内のキリコに、若者頭1名と責任者2名の名前がナカフクの後ろに町内の紋章の下の方に貼りだしてあります。今年はすべて私がパソコンを使って作成しました。

 若者頭というのは私自身よくわかっていないのですが、キリコ祭りの責任者というのは子供の頃からよく聞いていました。決まった色のたすきをかけ、酒を飲むことが出来ないと聞いていました。

 石崎奉燈祭のキリコの担ぎ手はアルコール禁止というもの祭礼委員になって初めて聞きました。

 宇出津のあばれ祭りでも道路に面した窓を全開にしている家は多いのですが、石崎の町を歩くと窓枠そのものから取っ払っている家が多いのに驚きました。

 遅い時間になってから思い出して家の中を見るようにしたのですが、アルコールのようなものはほとんど出ておらず、来客に缶ビールを少し出しているだけという感じでした。

 今では宇出津のあばれ祭りでもたちの悪い酔っぱらいの姿を見ることはほとんどなくなったように感じているのですが、昔は殴り合いのケンカを含め酔っ払って大騒ぎをし暴れるのが主流であったとも思えるぐらいで、観光という要素も今ほどなかったように思います。昭和の時代のことです。

 昭和の終わり頃のことですが、当時は、輪島の海士町と七尾の石崎は、同じく漁師町で気性が荒く、また、団結力が強いとも聞いていました。同じ輪島市内や七尾市内でもその地区だけは言葉も違って、特に石崎は言葉が汚く一緒にいると恥ずかしくなるとも聞いたことがありました。

 私が小中学生のの頃も宇出津ではごく普通に相手のことを「われ」と呼んでいましたし、今では耳にすることがなくなった言葉もいろいろありました。もう20年近く前になると思いますが、小学校で標準語の教育を徹底したとも聞いています。

 今では普段の生活で、小中学生や子どもの姿をみかけること自体がとても少なくなり、まとまって見かけるのはお祭りのときぐらいです。あばれ祭りでもベビーカーを押した女の人の姿を見ることが多く、それだけ安全、安心な祭りになっているのだと思います。

 今年はテレビで初めて長野県の諏訪神社の御柱祭という祭りがあることを知りました。ミヤネ屋でもやっていましたが、ずいぶんと長い期間に渡る祭りがあるのだということも初めてしったお祭りでした。

 そのうち死亡事故が起きたとテレビのニュースで知り、ネットでは二人の弁護士が諏訪神社の宮司を刑事告発したということをニュースで知りました。告発をした弁護士についても調べましたが、その後大した問題にもなっていたので、割愛したいと思います。

 私は50歳を過ぎるまで、お祭りの運営について深く考えることはなかったのですが、運営にたずさわることは多くの負担とともに、理不尽ともなりうるような責任を負うリスクがあるのだと思いました。

 宇出津のあばれ祭りは先月つまり7月の第一金土でしたが、翌週の第二土曜日は七尾市の祇園祭というキリコ祭りがあって、これも初めて見にゆきました。七尾市の大地主神社の祭礼ということで、これは是非見ておきたいと思いました。

 キリコの大きさは宇出津のあばれ祭りとそう変わらないものでしたが、石崎奉燈祭の奉燈と同じように絢爛豪華な装飾性の高いキリコでした。

 宇出津のキリコと同じようにナカフクの後ろに名前が書いてありましたが、肩書は責任者などではなく、「指揮者」と「副指揮者」となっていて、責任という言葉を忌避した知恵なのかとも考えました。個人的な感想であり、実際のところはわからないです。

 石崎奉燈祭は2トンのキリコを100人で担ぐと言われています。キリコは日本遺産にもなった能登地方だけの伝統文化なので、車を使わず人力だけで担ぐキリコとしては日本最大ということになります。

 宇出津のキリコの場合、重さはさほどないですが、担ぎ手の数と調和が問題になります。「肩が合わない」という言い方もしますが、担ぎ手の肩の高さが合わないと各自の負担も大きくなると言われています。

 石崎奉燈祭の担ぎ手は男だけで年寄りの姿もないと思いました。女性の参加は、奉燈(キリコ)の上で笛を吹く小学生ぐらいの女の子ぐらいでした。ごく少人数です。祭りを見に行って気がついたことですが、参加がないためか、若い女性の見物客の姿がずいぶんと目に付きました。

 宇出津のキリコは大きさも重さもあるので、余り激しい動きはないですが、若い女性や年寄りの担ぎても多く、昔ほどではないですがキリコの上には小さい子供が乗っています。輪島大祭のキリコは、小さくて軽いということもありますが、回転させるなど非常に動きが激しいです。

 輪島大祭を見に行ったのも昨年が初めてでしたが、同じキリコ祭りでも違いや特色があるものだと思いました。能登のキリコ祭りに共通しているのは、準備を含めた負担の大きさとストレスの発散かと思いました。

 なにで見たのか憶えていないですが、昨年、輪島大祭に行った頃、太鼓を打ち鳴らすことで町の邪気を追い払う、という話がありました。たしかに輪島大祭は太鼓と鉦が鳴り響くお祭りで、小さい子供から小中学生も太鼓を叩くのがとても上手です。

 二日目の重蔵神社や三日目の住吉神社では、神社の前にキリコをとめて、そこで太鼓を打ち鳴らしていましたが、そういう光景も初めてみました。奉納打ちということになるのかと思いますが、お祭り自体が本来、歴史と伝統を受け継いだ神事なのだと思いました。

 翻って弁護士を見ると、自らの負担を最小限におさえ、手前勝手な理屈と選りすぐった前例で利益をかっさらう泥棒のような神様だと思いました。不安とストレス抱え込むような方向に呪詛のような祭事を大事件に触れて行います。疫病神と言いますが、まさにそのとおりだと思いました。

 時刻は14時22分です。また色々と沢山の発見がありました。ネットは情報の宝庫だとあらためて思いました。事象のごく一部があることや全体像における割合の小ささも能登の祭りを通して実体験で感じている一面もあります。昼食もまだです。朝は冷凍の食パン一枚を食べました。

 法クラ関係でもまとまって取り上げたいことが出てきました。深澤諭史弁護士のツイートとリツイートが中心になっています。

 この項目でも能登のお祭りのことを沢山書いたと思いますが、お祭り自体の紹介が目的ではなく、歴史的民俗的な意味で、小倉秀夫弁護士とモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の邪悪的神格性を検証、研究し、刑事告訴という実際の手続きに反映させるための資料であると位置づけております。

 妖怪退治とまで言ってしまえば言い過ぎかとも思ったりしますが、神話のような物語性を現代のパソコン技術や情報力を駆使して、記録する作業でもあります。結果はわかりませんが、人事を尽くし、結果が出た場合において、それに至る道理とプロセスを明確に公開し記録する作業です。

 モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と小倉秀夫弁護士は特に選んだ弁護士ですが、弁護士という業界の問題性を浮かび上がらせてくれていますし、特にモトケンこと矢部善朗弁護士においては、数年来に及ぶ大打撃を蒙りました。小倉秀夫弁護士にはけじめをつけてもらう一点です。

 時刻は17時00分です。宇出津新港のどんたく宇出津店に買い物に行って16時前には家に戻っていました。

 石崎奉燈祭の若い女性の死亡事故のニュースは羽咋市のアパートに住んでいた時のこととして特に鮮明に憶えているのですが、当時他に何かあったのかと気になり、8月のはじめというのは間違いないと思いますが、はっきりした年を特定したいと思いました。

 そこで思いついたのが当時メインにしていたはてなダイアリーのブログでの検索です。実行すると「石崎」をキーワードにした検索で見つかったのは1件だけでした。記事のタイトルそのものは文字化けで判別できなくなっています。次は特定の日付の記事の指定になっています。

/**********(引用開始)**********
引用URL>>>>:http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20080201 *1201875347* 日暮れて途遠し

しかし、当日になって気がついたのも不思議な巡り合わせというか、運命的なものを少なからず感じてしまいました。ちょうど仕事が暇になり、一緒に仕事をしている人と雑談をしていたところ、運転免許のことに話が及び、とっさに気がついたのです。その前には、七尾市の石崎で、地元出身の大相撲の元横綱輪島が、不祥事を起したとき、建立されていた銅像が取り壊しになったという話を聞き、そんなこともあったのかと、昔のことをあれこれと思い出していました。

**********(引用終了)**********/

 文字化けしたままになっていた記事のタイトルの部分を削除しました。URLにあるように2008年2月1日の記事です。当日の記事はこの一件だけでした。

 ここに七尾市石崎町出身の元横綱輪島関のことが書いてありますが、すっかりと完全に忘れていました。一昨日に石崎町に行った時も、和倉温泉に向かう道沿いに、横綱輪島大士の石碑のようなものの案内板がありましたが、ここに書いてあることを思い出すことは全くなかったです。

 この記事では免許証を失効させた時のことを書いてありますが、その時のことはよく憶えています。羽咋駅から電車で金沢駅に行き、内灘線で運転免許センターまで行きました。5年以上派遣の仕事をしていて、自分から休みをもらったのはその時の1回だけでした。

 鋳物工場できつい仕事をしていたので、化物かと人に言われたこともありましたが、当時はそれだけ健康にも恵まれていたのだと思い、長い年月を無駄にしてしまったと思うとともに、羽咋市においてモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に受けた打撃にも感慨を深めます。

 なお、このブログのタイトルの文字化けですが、いくつか実名を丸ごと匿名に置換するのにAPIを使って投稿しなおしたところ、あとになって一部のタイトルで文字化けが起こっていることに気が付きました。はてなダイアリーではEUC-JPという今は使われなくなった文字コードが使われています。

 さいわい文字化け前のタイトル名を探しだすことが出来たので修正をしました。免許証のこととはまったく関係のないタイトル名になっていました。

[社会]思い込みで10年以上無免許運転をしていた女性教諭 - 日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20080201

 編集画面で8月の記事を探していたのですが、思いがけない発見がありました。これも何かのお導きなのかもしれません。次の記事になります。

関係者の実名公開について - 日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20060805/1154791082

 2少年の殺人事件を起こし無期懲役刑となった大網兄弟の父親の名前と、その兄弟分で東京で暴力団組事務所を開いた能登町姫出身の人物の名前が実名になっていたので、これは○に置き換えておきました。「私のその近く」となっていた「の」を「も」に訂正しました。

 いくつかすっかり忘れたいた事が書いてありましたが、殺人事件の50万円と思っていた借金が40万円になっていました。割と重要と思われることですっかりと忘れていたのは次の司法書士と竹沢俊寿にに相談するように説得していたという部分です。

/**********(引用開始)**********
引用URL>>>>:http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20060805/1154791082 関係者の実名公開について - 日暮れて途遠し

※民事裁判で八百長判決を出した古川龍一裁判官は、転任先の福岡で司法史上最大の不祥事とも言われた、妻のストーカー事件に関わる不正を引き起こし、検察をも巻き込んだ。

http://www.aiben.jp/page/frombars/topics/32.html

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/saikousatyousahoukokusyo.htm

※同じ民事裁判で、原告側訴訟代理人となった長谷川紘之弁護士宅に強盗が押し入った。同日の午前、加害者は能美郡辰口町(当時)でも、民家に押し入り強制わいせつ事件を起こした模様。福井刑務所内で得た情報では、弁護士の妻は強姦されているという。

 弁護士宅の合い鍵を持ちながら、不在ではないときに押し入り強盗を敢行しているが、そもそも弁護士の社会的声価をおとしめ、他の弁護士にも無言の圧力を加えるための、外形的事実を作り上げる目的で、依頼された実行者であった可能性も否定できない。

 なお、新聞報道によると「金に困ってやった」とあり、数百万円の借金があったらしい。判決は早めに出て、服役、福井刑務所にいたらしい。同じ第二工場の一人の受刑者からしか、話を聞くことはなかったが、その本人も、金沢で強制わいせつ事件を起こし服役、冤罪であると訴え続け、再審請求もすると言っていた。市場急配センターや金沢市場輸送と同じ、金沢近辺の運送会社の社員であり、石過運送と言っていたと記憶している。

 その運送会社には、中西運輸商から金沢市場輸送の配車係になった吉村哲が、昭和61年頃に勤めていたという経緯もある。なお、吉村哲の父親は、平成3年頃、被告訴人の一人である安田繁克らと一緒に金沢市場輸送でイワシの運搬の仕事をしていた。

 イワシの運搬の仕事は、ミール同様市場急配センターが元請けで、それを金沢市場輸送が請け負うというかたちになっていた。

 中西運輸商については、平成6年頃金沢大学付属病院で、精神鑑定を受けた際、同じ精神科の閉鎖病棟にいた七尾市近辺出身のHRという人物が、労働組合の組合長だったかをしていたとき、ある中年女性を解雇したことに絡み、中西運輸商から依頼され右翼団体の人間から、執拗な攻撃を受け精神的な重圧に耐えきれず、ある日突然、精神がおかしくなりうつ病と診断されたらしい。

 出会った頃は、ほぼ快方の状態に見えたが、それでも尿を自分で出すことが出来ず、管を使って看護婦さんに出してもらっていた様子。本人曰く、発病がきっかけで、性格の方も別人のように大人しくなったという。

 被告訴人の一人であり金沢市場輸送、市場急配センターの会長であり実質的経営者でもあった竹沢俊寿は、資金面で中西運輸商の社長を救ってやったことがあると自慢していた。竹沢俊寿は表立った運送会社の経営とは別に、いわゆる闇金のような金貸しをしていたという噂もある。

 福井刑務所で古い知己であるという富山県内の人物の話では、朝鮮から若いときに渡来した朝鮮人という話もあったが、竹沢俊寿本人にそのような外国訛りは全く感じられず、真偽は不明。他にもそのような話を聞くことはなかったが、ヤクザの組長をしていたとか、土建屋を経営していたという話は、本人を含め、複数から聞いていた。

 中央大学を中退したとか、空手部に在籍しいていたというのも本人の自慢の一つだった。

 ヤクザの組長をしていた頃、一時所属していた組員に松浦という男がいて、これがイワシの運搬の仕事の事実上のリーダー的存在だったが、安田繁克はその松浦の愛人の息子で、松浦の紹介で入社したという話だった。

 平成10年11月20日頃市場急配センター事務所で会見した松平日出男、労務の責任者という堂野の二人は、竹沢俊寿は司法書士の免許を持っている法律のプロで、私に是非相談に行くよう、しつこく哀願じみた口調で繰り返していた。

 堂野ももともとは、松浦の紹介で10トンダンプの持ち込みで、イワシの運搬をしていた一人。元ボクサーで、県外のようだったが、暴力ダンク組長のボディガードをしていたという話。「カタワと結婚したいてかぁ」とその時、残虐な笑いとともに言葉を浴びせかけ、松平日出男も横で大いに同調し、満足そうに笑っていた。利害をともにし、事件に深い関与と理解が想定される人物。

 平成2年ぐらいには、金沢市内寺中町あたりのアパートか家に住んでいた模様。一度、本人に頼まれて、自宅まで送り届けたことがある。また、その愛人という大野という女性は、金沢市内涌波あたりに住み、確か大同生命の保険外交員をしていた。堂野の紹介で渋々保険の契約をした覚えがある。その女性は、少なからず私の当時の妻にも接触していた模様。

 またその大野という女性の息子は、平成3年当時確か16歳で、市場急配センターの荷卸し手伝いのような仕事をしていた。出所後安田敏に聞いた話では、その後市場急配センターで運転免許を取り、運転手もしていたらしい。

※古川判事と同じ頃金沢地方裁判所で裁判官をしていた村木裁判官は、転任先の東京高裁刑事部に所属中、少女買春という事件を起こし、世間の注目を集めた。古川判事は、民事だけでなく、刑事での再審請求の裁判官の一人でもあったが、私の記憶の範囲では、村木という判事は再審請求事件にたずさわっていない。

 古川判事同様裁判官として、致命的な不祥事を引き起こし、転落したことになるが、裏で工作部隊の暗躍があり、罠に陥れられたという可能性も否定できない。古川判事の場合は、本人ではなくその妻の非行がきっかけになったと言えるはず。

※平成7年頃か、O兄弟の父親大網○○が二人の少年の殺人事件を引き起こし、逮捕され、無期判決が確定した。検察の求刑は死刑で、遺族も死刑を強く求め、法廷に位牌を持ち込んでいたと聞いたようにも思う。

 新聞報道によるとうらぶれた労務者風の年配者に、40万円を無心されなかなか返済してもらえず、車の購入にお金がいることになったことで、強い催促をし、被疑者を追い詰め、窮鼠猫をかむようなかたちで、殺されたという単純な事件。北国新聞の報道では、そのような被害者側の落度が遠回しに協調された印象が否めなかった。

 新聞報道には一切出ていないが、暴力団との組関係もあったような人物で、窃盗を繰り返し、何度も服役していたらしい。兄弟分という人物は、東京でヤクザをやっていて、平成3年の春頃には独立して事務所を開いたという。これで組長というかたちになっていたのかもしれない。

 その人物は、能都町(現在能登町)姫の出身で、○○(○○○)という人物。昭和58年の春頃、私は大網自動車、Oプロパンの慰安旅行に同行した。一台のワゴン車で東京に行った。7,8人ぐらいで。その時の、宿泊先が大目という人のマンションだったらしい。後日、被告訴人OKNからそのような説明を受けた。

 再会したのは平成2年頃の、被告訴人OKNの結婚式のとき、その時東京でヤクザをやっていると聞き、いかにもそれらしい人物になっていた。前回会ったときの面影は全く感じられず、別人のようにも思えた。2次会となった金沢市の繁華街片町のスクランブル交差点の側のおでん屋で、私はコウジという人物に、ビール瓶を振りかざされ、頭を殴らそうになったが、それを止めたのが被告訴人HTNだった。

 このコウジという人物は、東京で父親と知り合い、その後、金沢で被被告訴人OSNと一緒に生活、行動するようになったらしい。福岡であったか九州の出身者で、具体的な事情は聞かなかったが、父親が命の恩人になったという話を聞いた。

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 かなり長い引用になりました。長谷川紘之弁護士の件で、「弁護士宅の合い鍵を持ちながら、不在ではないときに押し入り強盗を敢行しているが、」という記載もありますが、この合鍵のこともすっかり忘れていました。

 金沢市片町のスクランブル交差点の側の赤玉という名前のおでん屋だったと記憶していますが、そこでコウジという人物にビール瓶で頭を殴られそうになり、被告訴人浜口卓也にとめてくれたことはよく憶えていましたが、大網兄弟の父親のことを命の恩人と言っていたことは、すっかり忘れていました。

 コウジという人物の顔はなんとなく憶えていますが、小柳ルミ子という歌手と結婚して離婚した年下の人物と見た感じが似ていました。本人の口からも命の恩人という言葉を聞いていたように思いますし、ずいぶんと感謝し、敬っている態度にも感じていました。

 箇条書きのメモ書きっぽい感じですが、今読むと記憶の喚起や要点の整理にやくだつ記載だと思いました。

 2006年といえば平成18年で、その平成18年の10月に安藤健次郎さんの自宅に行き、金沢中警察署に連れて行かれ山出警部補にストーカー扱いされ誓約書を書かされましたが、お前のホームページは印刷して記録をしている、とも言われていました。

 その直前に「お前がホームページで、松平や堂野のことをとやかく書いていることはよく知っている。」と言われ、頭で理解すると、その時のストーカー扱いの対応というのも、平成11年8月7日の金沢中警察署の対応の真意を理解させる趣旨とは受け取れます。

 平成11年8月7日は土曜日で、犀川祭りという花火大会が行われていました。車で安藤健次郎さんの自宅に向かったのは、その花火大会が終わったような時間帯で、ずいぶんと道が混んでいました。金沢中警察署も警備で慌ただしく、人員も普段より多く集まっていたと考えられます。

 犀川祭りを初めて見て知ったのは昭和56年のことでしたが、被告訴人大網周一に連れて行かれました。その時から8月の第一土曜日と聞いていたように思います。今は能登のお祭りも金曜や土曜日と決めるところが多くなっていますが、当時は曜日で祭りを決めるとは聞いたこともなかったです。

 そこで現在、8月の第一土曜日と決まっている石崎奉燈祭について調べてみたのですが、次に気になる記述がありました。

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引用URL>>>>:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B4%8E%E5%A5%89%E7%87%88%E7%A5%AD 石崎奉燈祭 - Wikipedia

1995年(平成7年)までは京都祇園社の例祭日である旧暦6月15日に行われていた。

1997年(平成9年)12月4日に能登一円のキリコ祭りが、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されているが、その中の1つである。また2015年(平成27年)4月24日には、「灯り舞う半島 能登 〜熱狂のキリコ祭り〜」の中の1つとして日本遺産に指定された。

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 「1995年(平成7年)までは京都祇園社の例祭日である旧暦6月15日に行われていた。」という部分です。石崎町の八幡神社について調べると、須佐之男や牛頭天王のことはなかったように思いますが、やはり祇園信仰の流れをくむお祭りだったようです。

 買い物に出掛ける前、次のページを読み、そこに書いてある伊万里市と岡山市、富山県の伏木のお祭りについて調べ、YouTubeの動画を見たりしていました。岡山市の裸祭りは、先日、蘇民祭ことで知ったばかりでしたが、いずれもすごいお祭りがあるものだと感心しました。

 すごい偶然とも思えたのですが、平成13年の石崎奉燈祭の死亡事故で起訴され有罪判決になったことも確認することが出来ました。知りたい要点をしっかり押さえてある記述とも思いますが、よくある質問サイトでの回答で、ほとんど改行のない長い文章になっています。

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引用URL>>>>:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14105305529 だんじりで死んだら刑事責任などどうなりますか? - ケースバイケースだとは思い... - Yahoo!知恵袋

刑事責任は問われるのか。関係者が重過失致死容疑で書類送検され、 不起訴や起訴猶予となったケースがあるほか、13年に石川県七尾市の 「石崎奉燈祭」を見物中の22歳女性が奉燈と住宅の壁に挟まれ死亡し た事故では、運行責任者が同罪で在宅起訴され、金沢地裁が禁固2年・ 執行猶予4年を言い渡した。

**********(引用終了)**********/

 やはり七尾市の簡易裁判所ではなく、金沢地方裁判所での刑事裁判だったようです。何時間か前に書いたコンセールのとの説明で金沢という言葉がありました。珠洲警察署の署員との質疑応答のような場での発言でした。起訴したのも御庁つまり金沢地方検察庁になるはずです。

 前出のコンセールのとの会場では、万一重大事故が発生した時のキリコ祭りの責任者に責任について、「人身御供か」という声も上がっていました。

 「人身御供」をキーワードにTwitterの高度な検索で調べたところ、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)は該当なしで、小倉秀夫弁護士は次の一件だけが結果に出ました。この検索の精度はかなりよくないとは経験から思ってはいます。

ツイート:Hideo_Ogura(小倉秀夫):2015/07/18 16:12: https://twitter.com/Hideo_Ogura/status/622302932768129024 : アメリカの国家戦略のために日本の若者を人身御供として差し出そうという動きに反対すると、「反日左翼」といわれるのが今の日本なのだなあ。

 深澤諭史弁護士も「人身御供」では検索結果が出なかったですが、キーワードを「人柱」に変えて小倉秀夫弁護士のツイートを調べると、まずまずな数の結果が出たので、ブログの記事にまとめました。

"人柱" from:Hideo_Ogura - Twitter検索 https://twitter.com/search?f=tweets&q=%22%E4%BA%BA%E6%9F%B1%22%20from%3AHideo_Ogura&src=typd

参考資料:「人柱」をキーワードに含む「小倉秀夫弁護士(@Hideo_Ogura)」のツイート(2013-05-09 01:48〜2016-07-16 23:21)「13」件 ,http://hirono2016k.blogspot.com/2016/08/hideoogura2013-05-09-01482016-07-16.html

 時刻は8月9日12時06分になっています。この項目のテーマに掲げた「祭礼運営における責任」については、ほぼ予定通りの内容を記述することが出来たと思います。

 比較としてモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の社会的責任についても言及する予定でいたのですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)は18時間前から自身のツイートをしておらず、3件のリツイートをしているのみです。

 同じく石川県警察珠洲警察署に名誉毀損の刑事告訴を予定する小倉秀夫弁護士のツイートの方で、発掘的な資料の発見などがあったので、そちらを先に済ませようかと思います。

 なお、この項目のタイトルには「弱者救済」「法テラス」という言葉も含まれていますが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が法テラスに言及したのは、個人的にかなり珍しく感じていました。

 「弱者救済」というのは民間信仰や宗教行事に通じるところもありそうで、なかなか考えさせられるところがあるとともに、私は歴史的、民俗的な系譜として司法問題や、弁護士のあり方を位置づけています。次に取り掛かるテーマは、まさにその辺りを切り口にするものです。

2016-08-09 火曜日 12:22 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


























































































































































































































































































































































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